東京高等裁判所 昭和54年(行ケ)153号 判決 1981年10月28日
原告
ジヨンソン・マシー・アンド・
コンパニー・リミツテツド
被告
特許庁長官
右当事者間の審決取消請求事件について、当裁判所は、次のとおり判決する。
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は、原告の負担とする。
この判決に対する上告期間につき、附加期間を90日とする。
事実
第1当事者の求める裁判
原告は、「特許庁が昭和47年審判第3702号事件について昭和54年5月11日にした審決を取消す。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求め、被告は、主文第1、2項と同旨の判決を求めた。
第2当事者の主張
(原告)
請求原因
1 特許庁における手続の経緯
原告は、名称を「オレフイン系不飽和化合物のヒドロホルミル化法」とする発明(以下、「本願発明」という。)につき、1968年8月2日及び1969年4月24日イギリス国においてした特許出願に基づく優先権を主張して、昭和44年8月2日特許出願をしたところ、昭和46年11月30日拒絶査定がされたので、これに対し、昭和47年6月13日審判を請求し、昭和47年審判第3702号事件として審理され、昭和53年6月9日出願公告がされたけれども、特許異議申立の結果、昭和54年5月11日審判の請求は成り立たない旨の審決があり、その謄本は同月26日原告に送達された。なお、出訴のための附加期間を3か月と定められた。
2 本願発明の要旨
触媒としてハイドライド カルボニル ビス(トリフエニルホスフイン)ロジウム化合物又はハイドライド カルボニル トリス(トリフエニルホスフイン)ロジウム化合物を用い、ヒドロホルミル化反応の生成物として得られるアルデヒドと触媒1モル当り3~6モルの過剰の(遊離の)トリフエニルホスフインから成る液体媒質中で反応を行い、触媒濃度を3.5mM以上へ増加させることにより直鎖―側鎖の比率が増加した生成物を得ることを特徴とする、オレフイン系不飽和化合物のビドロホルミル化方法。
3 審決の理由の要点
本願発明の要旨は、前項記載(ただし、そのうち、「触媒1モル当り3~6モルの1の部分の脱落しているもの)のとおりである。
特許異議申立人は、本願発明の明細書は特許法第36条第4項及び第5項に規定する要件を満たしていない旨主張しているところ、この明細書の記載について検討するに、同明細書の「実施例1」は、触媒濃度が2.5mMのものであり、また、トリフエニルホスフインを液体媒質として用いないものである。
ところが、「触媒濃度を3.5mM以上とすること」及び「トリフエニルホスフインを反応の液体媒質として用いること」は、本願発明の構成に欠くことができない事項であるから、「実施例1」は、本願発明の実施例とはいえない。そして、「実施例1」は、本願発明の明細書における唯一の実施例であるから、同明細書は、実施例の記載を欠くものである。
一般に、化学の技術分野の発明は、実際に実験を行なつてみなければ、その結果がわからないものであるから、化学の技術分野の明細書には、その発明を具体的に実施した例、すなわち、実施例の記載が要求され、実施例の記載を欠く明細書は、その発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者が容易にその実施をすることができる程度に、その発明の目的、構成及び効果を記載したとはいえない明細書とされている。このことは、特許出願にかかる発明の実施例は、その発明の発明者だけが知つているものであつて、第3者は知ることができないものである一方、特許権は、発明の公開の代償として与えられるものであるから、実施例の記載を欠く明細書は、その発明を公開したことにならないことから明らかである。
したがつて、本願発明の明細書は、特許法第36条第4項に規定する明細書の記載要件を満たしていないから、本願発明の出願は拒絶されるべきものである。
請求人は、実施例について、「本願発明では、反応の液体媒質としてベンゼンを用いた場合と、その生成物のアルデヒドを用いた場合とは、その結果が同じであるから、ベンゼンを用いた参考例の記載がある以上、更に実施例を示す必要はない。」旨主張する。
そこで、検討するに、請求人は、昭和52年12月9日付手続補正と共に、「本願発明は、ヒドロホルミル化反応を、その生成物のアルデヒドとトリフエニルホスフインから成る液体媒質中で行なう点で、引用された先願発明と構成を異にする。」旨述べている。これは、「本願発明のヒドロホルミル化反応がその生成物のアルデヒド及びトリフエニルホスフイン以外の液体媒質の不存在下で行われること」が、必ずしも本願発明の構成に欠くことができない事項でないようにも理解できるが、右手続補正によつて、液体媒質としてベンゼンを使用した例をすべて参考例に変更していることを考慮すると、本願発明において、ヒドロホルミル化反応を行なう液体媒質の「その生成物のアルデヒド及びトリフエニルホスフインからなる液体媒質」は、それ以外の液体媒質を含まないものと解される。
そして、審査手続の経過において、液体媒質としてベンゼンを使用した発明と、使用しない発明とが同一の発明でないことが本願発明の出願公告の決定の前提となつているので、両者は、当然、作用及び効果が相違すると理解するのが普通のことである以上、たとえ、両者の作用及び効果が同一であるという事実があるとしても、この事実を明細書に明示しない限り、液体媒質としてベンゼンを使用した参考例を実施例の代わりにすることは許されないと解すべきである。
したがつて、この出願の明細書には実施例及びこれに代わる記載もないから、この出願は特許法第36条第4項の規定により拒絶すべきものである。
4 審決の取消事由
1 本願発明の要旨認定の誤り
本願発明の特許請求の範囲は、出願公告決定前意見書と共に提出された昭和52年12月9日付手続補正書(甲第5号証)及び異議答弁書と共に提出された昭和54年2月19日付手続補正書(甲第3号証)により補正され、それらが補正却下されていない以上、審決時には、次のとおりになつたはずである。
「触媒としてハイドライド カルボニル ビス(トリフエニルホスフイン)ロジウム化合物又はハイドライド カルボニル トリス(トリフエニルホスフイン)ロジウム化合物を用い、ヒドロホルミル化反応の生成物として得られるアルデヒドと触媒1モル当り3~6モルの過剰の(遊離の)トリフエニルホスフインから成る液体媒質中で反応を行い、触媒濃度を3.5mM以上へ増加させることにより直鎖―側鎖の比率が増加した生成物を得ることを特徴とする、オレフイン系不飽和化合物のヒドロホルミル化方法。」
(傍線2ケ所は、昭和54年2月19日付で付加された補正箇所を示す。)
しかるに、審決では「触媒1モル当り3~6モルの」が本願発明の要旨認定から脱落している。したがつて、本願発明の構成に欠くことができない事項を欠いているものは、本願発明ではないから、間違つて認定された本願発明の要旨についてされた審決は、違法であり、取消さるべきである。
2 特許請求の範囲の解釈の誤り
審決は、本願発明における液体媒質はヒドロホルミル化反応の生成物として得られるアルデヒドとトリフエニルホスフインのみから成ると解釈し、したがつて、本願発明のヒドロホルミル化反応はベンゼン不存在下で行なうものとしているが、本願発明において、「ベンゼンの不存在下」は発明の要旨ではない。
すなわち、本願発明のヒドロホルミル化反応において、ベンゼンを不活性溶媒として使用することは、本願発明の明細書全体からみて、極めて明白な事項であるから、特に「ベンゼンの不存在において右反応を実施する」旨の記載が特許請求の範囲の項に明示されていない限り、「ベンゼンの不存在」が本願発明の要旨であるとみることはできない。
右要旨の認定に関し、本願発明の明細書では、溶媒としてのベンゼンの使用例が「参考例」として記載されているので、一見「ベンゼンの不存在」が本願発明の要旨であるかのようにも解されるが、「実施例」という標題をつけて発明の具体例を記載しなければならないとすることは、もとより、特許法第36条第4、5項の要件ではないから、「参考例」という標題で記載されていることの一事をもつて、「ベンゼンの不存在」は本願発明の要旨であると解することはできない。
3 特許法第36条第4項の規定についての判断の誤り
特許法第36条第4項の規定によれば、「発明の詳細な説明には、その発明の属する技術分野における通常の知識を有する者が容易にその実施をすることができる程度にその発明の目的、構成及び効果を記載」することが要求されているが、実施例の存在を必須要件としてはいない。実施例がなくとも当業者が容易に追試できる程度に、発明の目的、構成及び効果が記載されていれば良いのである。もつとも、特許法施行規則第24条の規定に係る様式第16の備考13のロ項には、「発明の構成には、発明の問題点を解決するためどのような手段を講じたかをその作用とともに記載する。この場合において、必要あるときは、当該発明の構成が実際上どのように具体化されるかを示す実施例を記載する。その実施例は、特許出願人が最良の結果をもたらすと思うものをなるべく多種類掲げて記載し、必要に応じ具体的数字に基いて事実を記載する。」と定められているけれども、これは、あくまでも訓示規定であるばかりでなく、その文中においてすら、実施例は、「必要あるときは」と記載し、「必要に応じ」具体的数字をあげることが勧奨されているのみである。
したがつて、実施例がなくても、それに代るべき発明の具体的説明が明細書全体から汲みとれれば、明細書の記載は不備とはいえないことが明らかである。
ところで、出願公告決定時の本願発明の明細書の「発明の詳細な説明」(甲第2号証特許公報参照)を見ると、参考例1、実施例1及び参考例2~7が存在する。その内容を、本願発明の構成要件中「液体媒質」と「触媒濃度」の2点について、表にまとめると、次のようになる。(参考例1は、この2点には直接関係がないので、省略。)
実施例1
参考例2
同3
同4
同5
同6
同7
液体媒質
n―ヘキサアルデヒド
(生成物と同物質)
ベンゼン
ベンゼン
ベンゼン
ベンゼン
不明
(ベンゼン)
ベンゼン
触媒濃度
2.5mM
2.5mMと10mM
0乃至10mM10種
2.5乃至50mMの各例
2.5mM
30mM
15乃至50mM
過剰の(遊離の)
トリフエニルホスフイン
不明
不明
不明
不明
不明
触媒/モル当り
ホスフインなし、3モル及び6モルの3例
不明
解決した主な技術的課題と結果
生成物から溶媒分離不要
触媒濃度の増加により得られるn―ヘキサアルデヒドの直鎖対側鎖比率3:1から10:1へ増加
ガス(H2CO=1:1)の吸収速度と触媒濃度との関係…第3図。
ガス吸収速度とオレフイン濃度との関係…第4図。
各温度において触媒濃度に対する生成物の直鎖側鎖比率の関係…第6図。
生成物の比率と生成速度…第7図及び第5図。
基体(出発物質)オレフインの種類とガス吸収速度
過剰のトリフエニルホスフイン添加効果
生成物の直鎖対側鎖比率増加
H2:CO=1:1から2:1にすると、生成物の直鎖側鎖比率著増
これらの各例には、本願発明の構成要件である、(a)触媒として、「ハイドライド・カルボニル・ビス(トリフエニルホスフイン)ロジウム化合物」又は「ハイドライド・カルドニル・テリス(トリフエニルホスフイン)ロジウム化合物」を使用すること、(b)触媒濃度を「3.5mM以上へ増加させる」こと、(c)反応を、「ヒドロホルミル化反応生成物として得られるアルデヒド」と「過剰の(遊離の)トリフエニルホスフイン」から成る液体媒質中で行うこと、(a)その「過剰の(遊離の)トリフエニルホスフイン」は、「触媒1モル当り3~6モルの過剰の(遊離の)」量であること、(e)そして、それによつて生成物の直鎖(正鎖)対側鎖(分枝鎖)の比率を増加させる、すなわち、直鎖アルデヒド分の多い生成物を得ること、の少なくとも1つと、それによつてもたらされる効果との因果関係が数字をもつて明示され、かつ、その証明手段も具体的に開示されている。しかも、明細書全体の説明及び諸例から観察すれば、個々の構成要件間の相関関係もないことが容易に理解できる。たとえば、生成アルデヒドの直鎖(正鎖―分枝鎖)比率の増大をもたらすのは、触媒濃度の増加の場合とトリフエニルホスフインを過剰にした場合であることが、参考例2、4、6等から明かであり、生成物が反応溶媒として使用できること(使用できさえすれば、生成物から溶媒分離の必要がないことは理の当然である。)が、実施例1に示されている。しかも、これらの因果関係が組合さつても、相互の影響がなく、それぞれが一緒に表われるに過ぎないことは自明であるから、1つの例中に、本願発明の構成要件のすべてが備わつていなくとも、総合すれば、特許請求の範囲によつて定義された発明を、十分当業者が具体的に理解できるものである。
更に、参考例6においては、液体媒質として過剰の(遊離の)トリフエニルホスフインを存在させて、反応を行なつているから、反応が進めば、当然アルデヒドが生成し、したがつて、前記(c)要件の2成分は存在することになる。
そうすれば、参考例6は、前記(a)~(e)の本願発明の5つへの構成要件のすべてを実質的に充足していることになるから、「参考例6」は、実質的には、本願発明の「実施例」というべきものである。
なお、出願人の代理人が「実施例」、「参考例」と区別したことは、不用意な誤りであつて、すべてを「例」(EXAMPLE)と原文のとおりにしておくべきだつたとは考える。しかしながら、ただ「例」とすれば許され、完全な実施例でもないものを「実施例」としたから拒絶するというのでは、余りにも形式的に過ぎ、かかる些細な瑕疵は、職権を以て訂正をさせることが、発明を保護奨励する特許法の趣旨に沿うものと思われる。
以上のとおり、本願発明の明細書には、本願発明の目的、構成及び効果の開示があり、当業者が容易に本願発明を実施することができる程度の具体的な記載があるから、その特許出願は、特許法第36条第4項の規定が要求する要件を完全に満たしている。
したがつて、本願発明の明細書に、実施例又はそれに代るものの記載がないとして、特許法第36条第4項の規定を根拠に、本願発明の特許出願を拒絶すべきものとする審決の判断は、違法であり、取消されるべきである。
(被告)
請求原因の認否と主張
1 請求原因1及び同2の事実は認める。
同3の事実は、本願発明の要旨認定の部分を除いて、認める。審決は、本願発明の要旨を請求原因2項に記載のとおりのものと認定している。
2 同4について
1 その1の主張について
審決における本願発明の要旨認定は、誤つていない。
審決(甲第1号証)の第1丁裏第4行乃至第7行では、「昭和54年2月19日付の手続補正により補正された明細書の特許請求の範囲に記載された事項が、本願発明の要旨である。」旨の認定をしているのであり、右明細書の特許請求の範囲は「触媒1モル当り3~6モルの」をこの出願の発明の要旨の1部としているから、審決第1丁裏第8行乃至第17行に「触媒1モル当り3…6モルの」が見当らないのは、単なる書き損じである。そのことは、審決が特に摘記する昭和54年2月19日付の手続補正により補正された明細書の特許請求の範囲を見れば、直ちに理解することができるから、本願発明の要旨認定に誤りはない。
2 その2の主張について
その主張は争う。
昭和54年2月19日付手続補正によつて補正された明細書(甲第2号証)によれば、参考例として、ベンゼンの存在下でヒドロホルミル化反応を行つた場合があるのみで、特にベンゼンを不活性溶媒として使用する旨明記されていない以上、該明細書の記載をもつて、ベンゼンを不活性溶媒として使用することが明白な事項とはいえない。被告としては、審決において述べたように、むしろ、本願発明は、明細書の記載からベンゼン不存在下において反応を実施するものと解するが、この点はさて置き、要は、特許請求の範囲における
「………、ヒドロホルミル化反応の生成物として得られるアルデヒドと触媒1モル当り3~6モルの(遊離の)トリフエニルホスフインから成る液体媒質中で反応を行ない………」
の記載について、液体媒質が前記アルデヒドとトリフエニルホスフインとに限られるか、あるいは他の反応媒質(例えば、ベンゼン)を含んでいてもよいかという、前記記載をどのように解釈するかという点にある。
ところで、本願発明の審査及び審判手続の過程をみるに、本願発明の願書に最初に添付された明細書では、その特許請求の範囲は、
「触媒としてハライドカルボニルビス(3置換ホスフイン)ロジウム又はハライドカルボニルトリス(3置換ホスフイン)ロジウム化合物を用いることを特徴とするオレフイン系不飽和化合物のヒドロホルミル化方法」であつて、反応媒質については何ら特定されていなかつたが、昭和46年4月26日付拒絶理由通知に対して、その特許請求の範囲を「触媒としてハイドライトカルボニルビス(3置換ホスフイン)ロジウム化合物又はハイドライドカルボニルトリス(3置換ホスフイン)ロジウム化合物を用い、ヒドロホルミル化反応の生成物として得られるアルデヒド又はその相当するアルコールと過剰の(遊離の)3置換ホスフインから成る液体媒質中で反応を行うことを特徴とするオレフイン系不飽和化合物のヒドロホルミル化方法」と補正し、ここで、反応媒質について規定すると同時に、意見書で、「本願発明のヒドロホルミル化反応はその反応生成物として得られるアルデヒドRCHO又はその相当するアルコールRCH2OHを含む液体媒質中でかつ過剰の(遊離の)3置換ホスフインの存在下で行われることが特徴である。」
と述べ、更に
「このため、本発明においては、ヒドロホルミル化生成物を分離精製する必要がなく、これを分離、精製を必要とする通常の媒質たとえばベンゼンを使用する場合に比べて、商業的にみて本発明の重大な利点の1つである。これにかんして、実施例4(甲第2号証における実施例1に該当する。)で媒質としてアルデヒドを用いる場合が示されている。
「本発明は、かかる構成をとることにより、反応生成物を分離、精製する問題を解消することができ、更に反応生成物の比率、直鎖/側鎖化合物の比率を一層高めるという顕著な効果が得られる。」
と主張したのである。
そして、その後、審判手続の過程では、審判請求理由補充書(乙第1号証)において、慣用のベンゼンなどの溶媒を使用しないことによる効果を主張し、また、昭和52年12月9日付手続補正書により、明細書の実施例4を実施例1に、実施例5~10を参考例2~7に補正したものである。
このような審査・審判手続の経過をみると、本願発明の特許請求の範囲における。
「ヒドロホルミル化反応の生成物として得られるアルデヒドと触媒1モル当り3~6モルの過剰の(遊離の)トリフエニルホスフインから成る液体媒質中で反応を行ない」
の記載は、前記アルデヒドと過剰の(遊離の)トリフエニルホスフインとのみからなる液体媒質中で反応を行うものと解されるから、原告の主張は、失当である。
3 その3の主張について
その主張は争う。
本願発明の明細書の参考例は、いずれも液体媒質としてベンゼンを用いるものであるが、審決に認定したとおり、本願発明の要旨における「ヒドロホルミル化反応の生成物として得られるアルデヒドと触媒1モル当り3~6モルの過剰の(遊離の)トリフエニルホスフインから成る液体媒質」は、ベンゼンを含まないと解すべきものであるから、本願発明の明細書の参考例の記載は、いずれも、本願発明の構成に欠くことができない事項と本願発明によつて解決された技術的課題もしくは達成された目的との間の因果関係を開示したことにならないものである。
すなわち、審決に述べたとおり、一般に、化学の技術分野の発明は、実際に実験を行なつてみなければ、その結果がわからないものであるから、ある条件の下における実験結果があつても、その条件の1つが変れば、同じ結果が得られるとは限らないのが化学の技術分野の発明の常識である。したがつて、ベンゼンの不存在が発明の構成要件の1つである本願発明の目的及び効果を、ベンゼンの存在する条件下の前記の参考例によつて説明することは、前記の常識に反する。
また、本願発明の明細書の「実施例1」の記載も、審決に認定したとおり、本願発明の構成に欠くことができない事項の1つである「触媒濃度を3.5mM以上とすること」及び「トリフエニルホスフインを反応の液体媒質として用いること」の2つの要件を欠くことにおいて、本願発明の構成要件と合致していないから、本願発明の技術的内容の開示になつていない。
原告は、出願人の代理人が、実施例、参考例を区別したことは不用意な誤りである旨の主張をしている。この区別は、昭和52年12月9日付の手続補正(甲第5号証)によつてされたものであるが、この手続補正は、昭和52年6月24日付審判請求理由補充書(乙第1号証)第3頁第16行~第4頁第5行における原告の「本願発明において、液体媒質としてヒドロホルミル化反応によつて生成するアルデヒドあるいはアルコールを使用することは、ヒドロホルミル化反応生成物を他の溶媒から分離する必要がないという実用上の効果を有するものであります。認定においては、この重要な効果が全く考慮されていないか、あるいは、見過されているものと思料します。慣用のベンゼンなどの溶媒を使用すれば、その除去は、必然であります。このことは、明細書中でも十分説明されております。」という主張にもとずいて、特許庁で通知した昭和52年7月25日付拒絶理由通知書(乙第2号証)の「3」の「ⅰ)」の「昭和52年6月24日付の補正にかかる特許請求の範囲に記載の全要件を満たした実施例の記載がない。すなわち、過剰の3置換ホスフイン又は触媒濃度の増加は、すべてベンゼン中での反応と認められる。したがつて、本願発明の効果が不明確である。」及び「ⅱ)」の「実施例1~3、実施例5~11(ただし8は、ペンテンを原料とするものを除く。)第12頁終行~第13頁第4行の「又それは……できる。」なる記載は、溶媒としてベンゼンを使用している点で、特許請求の範囲に含まれないから不適当である。」という拒絶理由に対してされたものであつて、原告の検討を経ているものであるから、前記の昭和52年12月9日付の手続補正が不用意にされる理由がない。したがつて、この点についての原告の主張は失当である。
また、本願発明の明細書には、実施例及びこれに代る記載もないから、本願発明の明細書が特許法第36条第4項の規定する明細書の記載要件を満たしていないという審決の判断に誤りはない。
なお、原告の指摘する参考例6は、ヒドロホルミル化反応の溶媒として、ベンゼンも使用しているところ、ベンゼンを使用することが、本願発明の構成要件の1つを欠くことは、審決に説明したとおりであるから、参考例6はこの出願の発明の実施例あるいはこれに代るものではない。
第3証拠関係
原告は、甲第1号証ないし第6号証を提出し、乙号各証の成立を認めた。
被告は、乙第1号証ないし第7号証を提出し、甲号各証の成立を認めた。
理由
1 請求原因1ないし同3の事実は、審決における本願発明の要旨認定の部分を除いて、当事者間に争いがない。
2 そこで、原告の主張する審決取消事由の存否について検討する。
1 その1の主張について
原告は、審決が本願発明の要旨認定を誤つていると主張する。
本願発明の要旨が請求原因2の項に記載のとおりのものであることは前述のとおり、当事者間に争いがない。
ところで、成立に争いのない甲第1号証により認められる本件審決における本願発明の「発明の構成に欠くことができない事項」の摘記(第1丁裏第8行~第17行)を、右争いのない本願発明の要旨と比較すると、この摘記が、本願発明の要旨のうちの、「触媒1モル当り3~6モルの」という部分を欠落していることは明らかである。
しかしながら、前掲甲第1号証によれば、審決は、右要旨の摘記に先立つて、「この出願の発明の構成に欠くことができない事項は、昭和54年2月19日付の手続補正により補正された明細書の特許請求の範囲に記載された次のとおりのものである。」とした上で、前記発明の構成に欠くことができない事項を摘記していることが認められ、更に、成立に争いのない甲第3号証及び同第5号証によれば、本願発明の特許請求の範囲の記載は、前記「触媒1モル当り3~6モルの」の語を挿入して記載されていることが認められるから、審決は、本願発明の要旨を請求原因2の項に記載のとおりのものと認定しているものと認めることができ、審決の前記欠落は、単なる書き損じと認めるのが相当である。
この点についての原告の主張は理由がない。
2 その2の主張について
原告は、本願発明において、「ベンゼンの不存在下」との事項は、発明の要旨に含まれない旨主張する。
成立に争いのない甲第2号証、前掲甲第3号証、同第5号証によれば、本願発明の要件である「ヒドロホルミル化反応の生成物として得られるアルデヒドとトリフエニルホスフインから成る液体媒質」について、本願発明の明細書における「発明の詳細な説明」には、これがベンゼンを含んでもよい旨の記載は存しないこと、そして、ヒドロホルミル化反応に際してベンゼンを存在させることの記載があるのは、実施例1における比較のためのもの(甲第2号証第5欄第17行~第19行)と参考例1~5及び7とにおいてのみであることが認められる。
他方、成立に争いのない乙第7号証によれば、原告は、昭和46年4月26日付拒絶理由書に対する同年10月1日付意見書において、「本発明においては、ヒドロホルミル化生成物を分離精製する必要がなく、これは、分離精製を必要とする通常の媒質たとえばベンゼンを使用する場合に比べて、商業的にみて、本願発明の重大な利点の1つである。これに関して、実施例4(甲第2号証における実施例1に該当するもの)で媒質としてアルデヒドを用いる場合が示されている。」(第2頁末行~第3頁第6行)と主張していること、
成立に争いのない乙第1号証によれば、原告は、昭和52年6月24日付審判請求理由補充書において、「本願発明において、液体媒体として、ヒドロホルミル化反応によつて生成するアルデヒドあるいはアルコールを使用することは、ヒドロホルミル化反応生成物を他の溶媒から分離する必要がないという実用上の効果を有するものであります。認定においては、この重要な効果が全く考慮されていないか、あるいは見過されているものと思料します。慣用のベンゼンなどの溶媒を使用すれば、その除去は必然であります。このことは、明細書中でも十分説明されております。」第3頁第16行~第4頁第5行)と主張していること、
成立に争いのない乙第2号証及び同第3号証によれば、昭和52年7月25日付拒絶理由通知書(乙第2号証)において、明細書の記載の不備な点として「実施例1~3、実施例5~11(但し、8はペンテンを原料とするものを除く。)頁終行~第13頁第4行の「又はそれは……である。」とある部分の記載は、溶媒としてベンゼンを使用している点で、特許請求の範囲に含まれないから不適当である。」と指摘されたのに対して、原告は、明細書を補正して、発明の詳細な説明における「実施例1及び2」を削除し、「実施例4」を「実施例1」に訂正すると共に、「実施例3及び実施例5~10」をいずれも「参考例」に変更していること、
が認められる。これらの事実によれば、原告は、審査及び審判手続において一貫して、本願発明における液体媒質には、ヒドロホルミル化反応の生成物と分離する必要のあるベンゼン等の溶媒は含まれないと主張してきていることが明らかである。
以上の事実関係を併せ考えると、本願発明における液体媒質には、ヒドロホルミル化反応生成物として得られるアルデヒド及びトリフエニルホスフイン以外に、ベンゼン等の溶媒は含まれないと解するのが相当である。
そうすれば、本願発明におけるヒドロホルミル化反応は、ベンゼンの不存在下において実施されるものであるから、「ベンゼンの不存在」が本願発明の要旨ではないとする原告の主張は採用することができない。
3 その3の主張について
原告は、審決が本願発明の明細書について特許法第36条第4項の規定する要件を欠くものと判断したのは誤りであると主張する。
特許法第36条第4項及びこれに関する同法施行規則の各規定が、必ずしも形式的な実施例の存在を要件としているものではなく、そのような実施例がなくとも、それに代るべきその発明を容易に実施をすることができる程度の具体的説明が実質的に明細書の中にされていれば、明細書の記載として同項の要件を欠くものとはいえないことは、原告主張のとおりである。
よつて検討するに、前掲甲第2号証及び第3号証によれば、本願発明の明細書の発明の詳細な説明に、そのヒドロホルミル化反応について具体的な記載がされているのは「実施例1」及び「参考例1~7」と認められるところ、「実施例1」に記載のものは、触媒濃度が2.5mMである点において、次に「参考例1~4及び7)に記載のものは、液体媒質がベンゼンである点において、また、「参考例5」に記載のものは、触媒濃度が2.5mMであり、液体媒質がベンゼンである点において、いずれも本願発明の構成要件の範囲外のものであつて、本願発明の実施例ではない。更に、「参考例6」に記載のものについて、原告はこれを実質的には本願発明の実施例であると主張しているが、この「参考例6」においては、液体媒質が十分明示されていないが、原告も、これにベンゼンを挙げ、説明しているところであるから、前2の項に説示の理由によつて、参考例6も本願発明の構成要件の範囲外のものというべく、したがつて、実施例1及び参考例1~7のすべてが、本願発明の実施例とすることのできないものである。
ところで、一般に、化学反応が関与する発明については、実験が極めて重要であつて、ある条件の下における実験結果があつても、その条件と異なる条件の下で、同じ結果が得られるとは限らないと考えるのが常識である。したがつて、本願発明におけるような特定の反応条件が発明の構成要件となつている発明については、明細書に、前認定の審査、審判手続の経緯により限定開示された技術的内容に係る、その発明の構成要件の範囲外の反応条件の下に実施した実験例が記載されていても、その実験例は、単にその実験例における反応条件下での結果を示しているに過ぎず、本願発明の実施例に代わりうるものとはなりえない。
原告は、「実施例1」及び「参考例1~7」には、少なくとも本願発明の各号の構成要件とそれぞれによりもたらされる効果との関係が数字をもつて明示され、かつ、その実証手段も具体的に開示されているから、それらを総合すれば、本願発明を当業者が具供的に理解実施することは十分可能であると主張する。
しかしながら、本願発明は、特許請求の範囲に記載の事項を発明の構成要件とすることによつて始めて発明の所期の目的を達成することができたものであるから、この発明の構成要件の範囲外の条件下で実施された実験例は、本願発明の参考資料たる意義を全く有しないとはいえないとしても、それをもつて実施例に代るものが記載されているとすることはできない。
以上のとおりであるから、本願発明の実施例又はそれに代るものの記載のない本願発明の明細書は、特許法第36条第4項の規定する要件を欠くものというべく、原告の主張は採用することができない。
審決の取消を求める原告の主張はすべて理由がない。
3 よつて、本件審決の違法を理由にその取消を求める原告の本訴請求を失当として棄却することとし、訴訟費用の負担及び上告のための附加期間の付与につき行政事件訴訟法第7条及び民事訴訟法第89条、第158条第2項の各規定を適用して、主文のとおり判決する。
(荒木秀一 藤井俊彦 清野寛甫)